奥地圭子(おくちけいこ)
不登校の増加は知られるところだが、すでに27年間増加し続けていることはあまり意識されていない。実に四半世紀という長さであり、その間少子化が進んでも、それに伴って減ることはなかった。
この間ずっと、文部科学省は莫大な予算をかけて子どもたちを学校に復帰させようとしたが、功を奏していない。この事実をよく考えなければならない。不登校の子どもは学校へ戻してあげるのが一番いい、という考え方は、問い直すべきではないのだろうか。
私は、自分の子の不登校経験から、実に多くのものを学んだし、常識や建前に凝り固まっていた自分の価値観を見つめなおすことができた。設立して20年になる親の会では、学校にこだわるのではなく、子どもという生命の側に立って、子どもが学校と距離をとっていることを受けとめ合ってきた。学校外の、子どもの居場所・学びの場である「東京シューレ」を開設して18年。不登校とは、特別に問題のある子が生じさせることではなく、自分らしく生きたいという表現であると感じてきた。
現実に子どもは、学校で傷ついたり、疲れたり、自分を押し殺して通う中でストレスをためたりしている。そして、学校に行かなくてはと思いつつ行けない、あるいは、行く気になれないで苦しんでいる。一方、フリースクールは、行かなければならないところではないにもかかわらず、子どもは自分の意志で喜んで通って来る。そればかりか、子ども自身が主人公としてやっていく場では実に生き生きと自己を発揮し、また子ども同士協力し合って大きな夢も実現している。
不登校の子どもの権利保障とは何だろうか。子どもを一人の人間として尊重するためには、学校中心の発想ではなく、多様な成長のあり方が選べる制度や考え方こそ求められているのではないだろうか。
プロフィール
1941年東京都生まれ。教職を経て、1985年「東京シューレ」を開設。現在、NPO法人 東京シューレ理事長。同法人「フリースクール全国ネットワーク」代表理事、同法人「チャイルドライン支援センター」常務理事等を務める。
著書に『登校拒否は病気じゃない』(教育史料出版会)、『子どもの心の奥にひそむもの』(ブックレット生きる丸数字(1))(アドバンテージサーバー)ほか多数。
ある職場の研修で人権をテーマに参加型学習を行った。参加者は全員働き盛りの男性たち。人権尊重について考えていくためには、まず自分が尊重されているかどうかをふり返るところから始まる。「思春期の子どもに、お父さんの入った後のお風呂には入らない、と言われたらどう思う?」との問いに、「そんなものだと納得している」と答える男性が幾人も。それくらい普通我慢することで、人権のなんのと言うほどのことでもないといった様子だ。その後、いくつかの投げかけにも反応は鈍い。これでは、他人の痛みを共感できるはずがない。
講義形式が当たり前で、参加型学習に慣れていない男性たちは、問題を自分自身につなげ、感じたことを表現することがかなり苦手だ。やれやれ、大変な場にきてしまったかと思っていたら、終了後の感想に「感情を切り捨てていた自分に気づいた」「参加型って面白い。新鮮」などと書かれてあった。可能性はないわけでもなさそうだ。理屈で固まっている思考回路を解きほぐし、自分の感性に敏感になる学習経験をしていかなければ、人権感覚を養う研修は効果がない。